تسجيل الدخولベネディクトは、閉ざされた扉を振り返りもしなかった。
扉の外で鍵がかけられた音を、彼も聞いていたはずだ。けれど、薄い金の瞳は私から離れない。白い卓を挟んだ距離は変わっていないのに、背後の扉までの八歩が、さきほどより遠く感じられた。
「怖がらなくていいよ。せっかく綺麗にしてきてくれたのに、そんな顔をされたら困る」
言葉だけは優しい。けれど、その視線はもう隠されていなかった。私の顔を見たあと、肩へ、胸元へ、肌を隠しきらない白いレースへと降りていく。礼儀として留まるべき場所を、彼はひとつずつ踏み越えていた。
私は膝の上で手袋の指先を揃えた。卓上には銀の菓子ナイフがある。右手を伸ばせば届く。けれど、王太子に刃物を向けた瞬間、私の身を守るための行動であっても、後からどれだけ歪められるか分からない。まだ扉の外には、私の声を聞いた者も、彼の言葉を聞いた者もいなかった。
だから、今は言葉を選び、彼が立ち上がるまでの時間を少しでも引き延ばすしかない。
「王太子殿下のお招きですもの。失礼のないように整えて参
ベネディクトは卓の端を回り込んできた。白と金の上衣が近づくにつれ、甘い香水が濃くなる。花と蜜を混ぜたような匂いが近づき、息を吸うたび舌の奥に甘さが残る。その甘さが、かえって気分を悪くさせた。「その顔で、どこまで澄ましていられるのかな」「王太子殿下」「まだ殿下と呼ぶんだ。いいね。最後まで礼儀正しい令嬢でいてくれると、こちらも楽しい」 彼の手が、私の肩のレースへ向かって伸びかけた。 その時、昨夜のアウルの声が耳の奥に戻った。必ず帰ってきて、と言った時の、低く抑えた声だった。私は手袋の内側で指を一度だけ握り込んだ。 触れられる前に、私は茶器へ手を伸ばすふりをした。袖が卓の端に触れ、磁器が小さく鳴る。音を立てたのはわざとだった。彼の視線が一瞬、茶器へ動く。そのわずかな間に、私は椅子を半分だけ引いた。「お茶をいただいても?」 ベネディクトは私の手元を見たあと、口元を緩めた。「急がなくていいよ。時間はある」 時間はあると思っているのは彼だけだ。そうでなければ困る。私が茶器を戻そうとした時、温室の奥の小扉が静かに開いた。 私は振り向きかけて、すぐに止めた。ベネディクトの反応を見る方が先だった。彼は私へ伸ばしかけていた手を下ろし、苛立ちを隠さない目で入ってきたメイドを見た。だが、それ以上は動かない。王宮の使用人など、自分の邪魔になるものとして数えていない。その傲慢さが、今だけはありがたかった。 白い前掛け。伏せられた顔。盆の上には、新しい茶器と小さな銀の茶壺が載っている。「殿下、お茶が冷めております。新しいものを」「呼んでいない」「申し訳ございません。侍従長より、殿下のお茶は温かいものを切らさぬようにと」 女は深く頭を下げた。声は控えめで、王宮の使用人として不自然なところはない。ベネディクトが短く息を吐き、置いて下がれと命じると、女は静かに盆を卓へ置いた。 彼女は古い杯を下げるために、私の椅子のそばへ回った。盆を傾けないよう膝を折った時、伏せられていた横顔が、ほんの少しだけ私の方を向く。「大
ベネディクトは、閉ざされた扉を振り返りもしなかった。 扉の外で鍵がかけられた音を、彼も聞いていたはずだ。けれど、薄い金の瞳は私から離れない。白い卓を挟んだ距離は変わっていないのに、背後の扉までの八歩が、さきほどより遠く感じられた。「怖がらなくていいよ。せっかく綺麗にしてきてくれたのに、そんな顔をされたら困る」 言葉だけは優しい。けれど、その視線はもう隠されていなかった。私の顔を見たあと、肩へ、胸元へ、肌を隠しきらない白いレースへと降りていく。礼儀として留まるべき場所を、彼はひとつずつ踏み越えていた。 私は膝の上で手袋の指先を揃えた。卓上には銀の菓子ナイフがある。右手を伸ばせば届く。けれど、王太子に刃物を向けた瞬間、私の身を守るための行動であっても、後からどれだけ歪められるか分からない。まだ扉の外には、私の声を聞いた者も、彼の言葉を聞いた者もいなかった。 だから、今は言葉を選び、彼が立ち上がるまでの時間を少しでも引き延ばすしかない。「王太子殿下のお招きですもの。失礼のないように整えて参りました」「そう。それは嬉しいな。君は賢いね。自分がどう見えるかを分かっている」 ベネディクトは卓の上に肘を置き、指を組んだ。上品な所作だった。けれど、組まれた指の向こうで、薄い金の目だけが私の身体を測っている。「アウレルが隠したがるのも無理はない。あれは昔から、自分のものを誰にも見せたがらなかったから」「私は、誰かの持ち物ではございません」 声を荒げずに返した。彼を怒らせるためではない。こちらがまだ会話に応じる意思を持っていると見せるためだった。 ベネディクトは小さく声を立てて笑った。硝子張りの温室では、その笑いが思ったよりはっきり聞こえた。「そういうところもいいね。従順なだけの女は退屈だから。少し抵抗するくらいが、こちらも楽しめる」 背中に冷たい汗が浮いた。けれど、私は目を逸らさなかった。逸らせば、相手は怯えを見つけたと思う。怯えを見せることが、今の彼には喜びになる。「殿下は、私と何をお話しになりたかったのですか」「話?」
「アウレルも、君をよく送り出したね」 ベネディクトは椅子を勧めながら言った。「それはもう、心配しておりました」 私は微笑んだまま答えた。招待状にアウルの名を入れなかったのはそちらでしょう、とは言わなかった。けれど、声の端にそれが少し滲んだことくらい、目の前の人なら気づいたはずだった。 ベネディクトは少しだけ目を細め、声を立てずに笑った。「それは心配するよね。婚約者を一人で送り出すんだから」 柔らかな言い方だった。けれど、一人で、という言葉だけが、白い卓の上に少し長く残った。「彼は昔から、大事なものを隠すのが下手だった」 何気ない言葉に聞こえた。けれど、私は茶器の縁へ落としていた視線を上げた。ベネディクトの微笑みは変わらない。アウルをよく知っている者の親しさにも、わざと傷口を指で押すような無遠慮さにも聞こえる。どちらとして受け取るべきか決められないまま、茶器の薄い湯気だけが二人の間をゆっくり上がっていた。 毒の絵について触れるなら、ここしかない。そう思った時、背後で衣擦れの音がした。「恐れ入ります。ご随行の侍女の方には、控えの間をご用意しております」 王宮の侍女が、エレーヌへ向かってそう告げた。 エレーヌはすぐには動かなかった。私の斜め後ろで、ほんのわずかに足を止めている。私も振り返りたい衝動を抑えた。王太子の前で、侍女を離したくないと露骨に示すことはできない。「私の侍女は、こちらに控えさせていただいても?」 できるだけ穏やかに言った。 ベネディクトは困ったように眉を下げた。「もちろん君が不安なら構わない。ただ、王宮では客人の侍女にも休める場所を用意するのが礼だ。長旅で疲れているだろうし、茶会の間くらいは王宮の者に任せてくれないかな」 言葉だけなら親切だった。断れば、こちらが王宮のもてなしを疑うことになる。 エレーヌが静かに頭を下げた。「控えの間におります。お呼びがあれば、すぐに参ります」 その言い方で、彼女も理解していると分かった。どの扉から出る
アウルは、見送りには来なかった。 薄情だからではない。白いドレスをまとった私を見れば、彼はきっともう一度だけ行くなと言う。その声を聞いたあとで馬車へ乗ることを、彼も私も避けたのだ。 最後に交わした言葉は昨夜のままだった。必ず帰ってくると私が告げ、彼はそれを約束として受け取った。馬車へ乗る前、私は手袋越しに左手をそっと握った。昨夜のアウルの声が耳の奥に戻る。必ず帰ってきて、と言った時の、低く抑えた声だった。 鏡の前で身支度を終えた時、侍女たちは誰も余計なことを言わなかった。外套の内側で、肌に触れるレースがいつもより頼りない。歩くたびに肩口が冷え、胸元を隠そうとしても、布の薄さが贈り主の意図を思い出させる。 私は手袋をはめた指を一度だけ握り、部屋を出た。 廊下にはエレーヌが控えていた。彼女は私の姿を見ても、わずかに目を伏せただけで表情を乱さない。けれど、外套の合わせ目を整えてくれる指は、いつもより慎重だった。「お苦しくはありませんか」「大丈夫よ。ありがとう、エレーヌ」 彼女は静かに頷き、私の後ろへ下がった。護衛は二名。どちらも離宮でマリウスが選んだ者で、王宮の作法にも通じている。過剰に見えない人数で、けれど、何かあればすぐ動ける者たちだった。 馬車が離宮を出ると、車輪の音が石畳に細く続いた。向かいに座るエレーヌは、膝の上で侍女用の手袋を揃えたまま、窓の外と私の顔を交互に見ていた。彼女が何も言わないことが、かえって私を落ち着かせた。護衛の馬の蹄の音は、馬車の左右に一定の間隔で続いている。 王宮へ近づくほど道幅が広くなり、街路樹の枝まで整えられていく。白い城壁が見えた時、外套の下でレースが肌に触れた。私はその感触を意識しすぎないよう、膝の上で手袋の指先を揃えた。 王宮の門は、晴れた空の下でまぶしいほど白かった。王太子の私的なお茶会という名目なら、婚約者であるアウルを同席させない理由はいくらでも立てられる。招待状に彼の名がなかった時点で分かっていたことなのに、門を前にすると、その礼儀正しさが作り物めいて見えた。 門をくぐる時、振り返りたいとは思わなかった。振り返れば、離宮に残した
次に差し出されるものが、また疑う理由のない形をしていないとは限らない。 そう思った数日後、その予感は白い封筒と、白地に金の紐を掛けた大きな箱の形で離宮へ届いた。 王宮からの品は、すぐに私たちの前へ運ばれなかった。毒の絵のあとで決めた通り、まず別室でマリウスが封蝋、箱、添え状、布の内側まで改めた。毒の匂いはない。針も粉も、湿りもない。ただ、封筒には甘い香水がごく薄く移っている、と報告を受けた。 そうしてようやく、小さな書斎の卓へ置かれた。 封筒も箱も、白と金で整えられていた。礼儀正しい祝いの装いに見えるのに、その色だけが妙に強く残る。窓から差し込む午後の光を受けて、金の紐が細く光った。 封筒の表には、アストレア・ステラート侯爵令嬢へ、と丁寧な筆跡で記されている。アウルの名はない。「私宛てなのね」 そう口にすると、マリウスが静かに頷いた。「差出人は、ベネディクト王太子殿下です」 マリウスの声はいつも通りだったが、封筒を見る目には固さがあった。 アウルは窓際に立っていた。毒の絵の件から少し顔色は戻ったものの、まだ完全ではない。けれど、王太子の名が出た瞬間、彼の背筋がかすかに伸びた。具合の悪さを隠す時の姿勢ではない。戦う相手を見た時の立ち方だった。 私は封を開けた。香水は甘いのに、紙を押さえる指先だけが落ち着かなかった。 数日後、王宮で小さなお茶会を開くこと。婚約への祝いを改めて述べたいこと。今後の親交を深めたいこと。文面は礼儀正しく、どこにも不審な言葉はない。何も知らない者が読めば、王太子が元第一王子の婚約者を公に遇しようとしている、穏やかな招きに見えただろう。 けれど、毒の絵も祝いの品として届いた。 私は招待状を卓へ置き、隣の箱へ目を向けた。白地の大きな箱は、招待状と同じ色で整えられている。マリウスが目で確認を求め、アウルが短く頷いた。 蓋が開けられると、薄紙の奥から白いレースが現れた。 私は手を伸ばし、レースの端を持ち上げた。袖の向こうに自分の指が透ける。肩を覆うはずの布は低く落ちる仕立てで、胸元は昼の茶会に
私は椅子を少し寄せた。衣擦れの音が、静かな部屋で小さく響く。アウルはこちらを見ない。窓の外の庭を見ている。曇り空の下で、葉の色はいつもより鈍い。「アウル」 名を呼ぶと、彼はようやくこちらへ顔を向けた。唇には笑みがある。けれど、目の奥に疲れが残っていた。「一人で抱えないで」 言葉は短くした。慰めを重ねても、彼は受け取る前に冗談で包んでしまう気がしたからだ。 アウルは何か言いかけて、やめた。指先が紙から離れ、卓の上でわずかに止まる。私はそこへ自分の手を重ねた。彼の手は温かいのに、指の先だけが冷えている。「私も一緒に狙われたのよ。だから、一緒に考えさせて」 アウルの琥珀色の目が、静かに私を見る。からかう言葉は出てこなかった。少しの間、彼は私の手の下にある自分の指を動かさずにいた。「君にそんなことを言わせたくはなかったな」「言わせたくなくても、もう言ったわ」 アウルは小さく息を吐いた。紙を押さえていた指が、今度は私の手を包む。「一人で考える癖は、簡単には抜けない」「知っているわ。だから、隣にいるの」 彼はそれ以上言わなかった。けれど、重ねた手を引くことはなかった。むしろ、包む指に少しだけ力が入った。 それから、決めるべきことを一つずつ確認していった。 談話室は当面閉鎖する。換気を続け、壁や家具を改め、絵が掛けられていた場所の周囲は誰も触れない。王宮から届く品は、たとえ正式な手順を経たものでも、すぐには居室へ入れない。封蝋、運び手、添え状、箱の内側、布や香り。確認できるものは、すべて一度マリウスを通す。使用人の出入りも記録に残し、外部の職人や補助人員は、離宮の者だけで対応しない。 品を止めても、人の招きまで止められるとは限らない。そう思ったが、まだ口には出さなかった。今はまず、足元を固める方が先だった。 アウルは短く指示を出し、マリウスは一つずつ頷いていった。いつも冷静な家令の顔にも、今日は固さが残っている。エレーヌは扉近くで控え、必要な品を書き留めていた。その横顔は静かで
翌々日の午後、アウルが差し出した一枚の控えに、私はしばらく指を置いたまま動けなかった。 場所は、旧館の書庫に近い小さな控え室だった。厚い扉の向こうでは人の気配が遠く、窓から差し込む光は斜めに床を渡って、机の上に置かれた紙片の端を白く照らしている。そこには、花屋の控えから写された名と、貸し邸へ出入りした者の特徴、それからモンフォール伯爵家へ納められた香油の受け取り記録が並んでいた。「この名……リディア」 声に出した途端、胸の奥が冷えた。 その女の名は、セドリックが人目を避けて会っていた相手の一人として、すでに私たちの手元にあった。けれど、その時点ではただの断片にすぎなかった。宝飾商の控
アウルはしばらく何も言わなかった。慰めるでもなく、すぐに冗談へ逃がすでもなく、ただ私の手元の紙片を見ていた。やがて、短く息を吐く。「あいつの女癖は、社交場に出るようになってからだ」 低く落とされた声に、私は顔を上げずにはいられなかった。アウルは紙片を見ていた。いつものような笑みはなく、言葉を選ぶように少しだけ沈黙している。「あなたは、知っていたのね」「知っている奴は知っていた。隠すのが特別うまい男じゃない」 淡々とした言い方だった。けれど、そこに面白がる響きはなかった。むしろ、その話を口にすること自体を不快に思っているような低さだった。「……君が、あの男の隣で平気な顔をしているの
アウルからの手紙が届いたのは、翌朝のことだった。 朝の支度を終えたばかりの机の上に、侍女が銀の盆を置く。封筒には差出人の名がなく、封蝋にも家名を示す紋章はなかった。押されていたのは、見慣れない小さな金の印だけだ。それでも、封を切る前から誰のものか分かった。幼い頃、叱られたあとに私たちはよく旧館の古い書庫の奥へ逃げ込んだ。その時だけ使っていた、子どもじみた符丁が、封の裏に細く記されていたからだ。『懐かしき回廊で待つ』 たったそれだけの文を見つめて、私はしばらく指を止めた。昨日、共闘を決めたばかりだったのに、もう報せが来ている。「……すごく仕事が早くて驚くわ」 椅子の背に身を預けた拍子
来るかどうかは賭けだった。けれど、彼は来た。 高い窓から斜めに落ちる光の中、黒と金の外套をゆるく羽織ったアウルが、壁にもたれて待っていた。少し乱れた黒髪の影から琥珀色の瞳がこちらを向き、彼はいつものように口元を上げる。「ここを選ぶあたり、昔のことは覚えているんだな。……俺を呼ぶ場所としては、悪くない」「あなたを油断させられるなら、悪くない場所選びね」「言うようになった」 軽い言葉を返しながら、アウルは私の前へ歩み寄った。近づきすぎる前に私が半歩下がると、彼は面白がるように目を細める。その距離の取り方ひとつで、薬種店の記憶が戻るのが悔しかった。「薬種店であなたが買ったものについて聞







